昭和9年の石鎚

空蝉

 

コロナの憂鬱はここ高松でも同様で知人同士お互いに訪ね合うのも遠慮しがちなこの頃です。

 

 そんな日々が続く中、我が西条はどうなんだろうかとふと思い立ってこのHPを覗いてみました。

思ったとおり変わらずにありました。大保木へと続く前山の奥にで~んと鎮座する石鎚。

塞ぎがちな気持ちがパアッと明るくなりますね。ひうちさんに感謝、感謝です。

 

 のたりさんが纏められた石鎚山百景にあるすずめさんの赤天狗。これは凄過ぎ。

赤く染まった天狗だけでも凄いのに今まさに北壁にかからんとする白雲とのコントラストがまた凄い。

御塔谷から湧き上がって来たのでしょうか。

足繁く通うすずめさんへのお山からのプレゼントでしょう。

 

 お山の写真を見せていただいてただひとつ残念なことがあります。それは天狗から見た弥山が不自然に

フラットであること。痛々しいです。

すずめさんは弥山から天狗への稜線をナイフリッジと表現されていましたが、実はかつては弥山を含めて

そうだったんですね。勿論、すずめさんはご存じなのですが、もうこのことをご存じない方が多数を占め

ているかもしれません。敢えて申しあげました。

私が最初に登った昭和40年代初頭までは確かにそうだったのですが、ヤンチャして私の写真はみな煙に

なっています。

父のときはどうだったのかと父のアルバムを繰ってみました。岩峰が屹立する弥山はありませんでしたが、

三の鎖の最上部とおぼしき場所での写真が出てきましたので当時の弥山を偲ぶよすがとなればと思いアップ

します。何か発見があるでしょうか。

 

 父は西条中学35期。アルバムには昭和9年7月20日とあります。登山部の山行です。

今から87年前。現在壮年期の方が孫世代に当たります。

コメント: 6
  • #6

    空蝉 (木曜日, 25 3月 2021 20:41)

    皆さん、こんばんは。
     質問状への父からの回答に力を得てさらに私の想像力を最大限に働かせた結果、迷宮の闇の中に消えかけた弥山のナイフリッジは再び光りの世界へと蘇ったように思います。長文ですが、お付き合いください。
     父への質問状は世論調査に見られるようにそう思う、どちらかというとそう思う・・・形式の選択式で、回答がAだったら次はこちらの設問、Bだったら次はあちらという風に場合分けを組み合わせて作成しました。なるべく負担をかけないようにとの配慮です。
     判明したのはこの写真が石鎚山頂で祠は頂上社であること、この祠の横まで鎖を伝って登っていたこと。さらに前列左から4人目の半袖・学生帽姿がM鍋延行さん、後列右から4人目の同じく半袖・学生帽姿がT中国広さんであること。
     分からないとの回答はたくさんあって、先ず写真の左端の方、お山から左上方に向かって伸びているのが樹木であるのかどうか、左端の前から3人目、白い鍔付き帽を被った人物の首の辺りから左方に伸びる黒っぽい影のようなものがこの樹木の太い枝またはもう1本の別の樹木であるのかどうか、さらにこの2本の樹木風の影の間で山の稜線のように見える線状のものが山頂の地形の一部なのかどうか、さらにもうひとつ、写真に関連した質問ではないが、3の鎖の巻き道は当時からあったのかどうか、に対してでした。
     父からは分からないとの回答でしたが、当時、山頂にはシコクシラベか何かのけっこう大きな樹木が生えていて、その樹間の向こうに山頂の地形の一部が透けていたのではないかと私は想像します。写真の場合は天狗へと続く尾根の一部。
     ここで突然閃いたのです。弥山の北面は写真の鎖が作る傾斜のまま画面奥(東側)へ続いている(もちろん西側へも)。そして祠の向こうの南面は北面よりやや傾斜は緩いもののやはり画面奥へ続いているのだと。
     今、写真には祠を頂点とし鎖を斜辺とする直角三角形が見えています。この直角三角形を祠を通る垂線を軸に180°回転させ、回転させた側の傾斜をやや緩くして新たにできる不等辺三角形(左側が傾斜がきつく右側が緩やかな三角形)を考えます。この三角形を念頭に置いて、ここからはすずめさんの「気が付けば・・春」中に示された拝殿の写真で見てゆきましょう。三角形の傾斜は左右が逆になります。
     祠は拝殿の屋根、右側の千木の奥辺りに位置しています。不等辺三角形の頂点に祠を乗せたまま三角形を写真手前に引いてくると、祠は千木の辺りを通過したのち緩やかに下降しながらカメラの位置より少し上を通過してその背後に続いて行くと考えられます。この仮想的な祠の連なりがかつてのナイフリッジです。西条の街を眺めながらお弁当を広げていたのは今は拝殿の屋根辺りに位置する北向き斜面だった筈です。
     だんだん思い出してきました。このナイフリッジは天狗へと続く尾根への降り口のやや手前で少し落ち込んでからもう一度盛り上がり、それから降り口へと続いていたのでした。つまり弥山の山頂は少なくとも大小2つの斜面から成っていました。南北の行き来はこの窪みを通るのが楽だったです。
     読みにくい文章を長々と記して申し訳ありません。のたりさん、鎖ルートは移動したのではなく、鎖ルートだけが残り周りがごっそりなくなって再構成されたみたいです。

  • #5

    空蝉 (土曜日, 13 3月 2021 20:40)

    のたりさん、姫さん、ひうちさん、すずめさん、こんばんは。

     のたりさん、早くからアップしてくださっていたのに反応できなくて申し訳ありません。
     実はあの写真、今回ほどしげしげと見たことないです。ナイフリッジでなくとも今とは異なる何らかの特徴がないかあれこれ想像した挙句、迷宮の闇を彷徨ってました。昔は鎖をぴょんと飛び降りたらそこがお社だったんでしょうか。

     姫さん、初めまして。で、ホントにいいのかなあ。私は昭和43年7月に登ったはず。どうやら5人ともぴったり同期みたいです。私もすっかり『ふる里は友の写真に偲ぶもの、熱き語りに聞き惚れるもの』となっております。ひうちさんとすずめさんに感謝しきりです。

     ひうちさん、こちらこそお久しぶりです。
     そうですね。私も当時の全校生徒はそんなに多くないはずなのに、その割に山岳部員が多いなあという印象です。父上や祖父上ひょっとすると曾祖父上まで、写っている方がきっとおられることでしょう。
     当時はロープウェイどころかバスも通ってなくて西条の町から歩きどおし、ピークを踏んだあとは面河へ下りて泳いでから帰った、と聞いております。校訓の「質実剛健」はクリアしているようだけど、あとの2つ、特に「気品と清楚」の方は相当疑わしいですね。この校訓が当時あったかどうか定かでないですけど。

     すずめさんもこちらこそご無沙汰です。
     私も小学3、4年生とおぼしき女の子が鎖場で両手を放しズボンのお尻で掌の汗を拭ったのを見たことあります。「あっ、あぶない!」と思わず両手を差し出しそうになりましたが、本人はいたってケロッとしていました。落ち着いて見てみると足場がしっかりしているんですね。大人が心配するよりも子供は案外しっかりしてるってとこはあります。
     山頂小屋は無人の避難小屋でした。水がないから仕方ないですね。建付けの悪い開き戸が入口で奥は真っ暗だったと記憶しています。小屋と言うより横穴式の洞窟と言った方が適切かも。天狗が顔を出して覗きの行場に吊るされたらどうしましょう。

     冒頭に述べた迷宮の闇を脱出できるかどうか、質問状にまとめて父にぶつけてみましょう。光明が見えればまた報告します。


  • #4

    お矢来すずめ (土曜日, 13 3月 2021 17:23)

    空蝉さん、お久しぶりです。

    石鎚山系にまつわる懐かしいお話しに私も若かりし頃の思い出が蘇ってきて気分はあの頃の自分にとんぼ返りしています。

    私が初めて石鎚山に登ったのは中学生になってすぐの夏、教員をしていた叔母夫婦に連れられ石鎚山から土小屋経由で瓶ケ森へと縦走したものです。当時はもちろんロープウェイも無くバスで河口まで行きそこから延々と尾根道を登ったと記憶しています。私は今もそうですが当時はもっとガリガリの骨皮筋衛門で身が軽いのをいいことに鎖場なんかも危なっかしくひょいひょい渡って叔母にたしなめられたりしたものです。

    空蝉さんご指摘の弥山山頂の当時の様子はお写真にも写っている小さな山頂社祠と粗末な小屋があったように思います・・それも今のような営業施設ではなかったように・・。

    私が本格的に山に憧れを持ち山に浸るようになったのは高校に入り同じクラスに居た下津池出身で文字道り山を熟知したエータローという猛者を山友として得たことが大きく影響したものと思っています。学校行事をサボってはテント装備を担いで高瀑へ行ったり、夏休みには瓶ヶ森県営ヒュッテに長逗留し半分アルバイト、半分居候で山の生活を満喫したり・・そうそうもう一人蛮カラを気取って已まないキドーという山友もサボタージュの常連で一緒によく連るんだな~・・
    こんな私たちをよくぞ卒業させてくれたものと今にして思えば汗顔しきりで・・母校には足を向けて寝てはいけない私たちなんです。(時効のつもりで懺悔)

    いずれにしても若き日の奔放な山にまつわる記憶にアプローチしてくれた空蝉さんにはまたいずれ尽きない山の話でじっくりと一杯お願いしたいものです。

  • #3

    ひうち灘 (金曜日, 12 3月 2021 16:51)

    空蝉さんこんにちは。お久しぶりです。
    「昭和9年の石鎚」西条中学登山部の写真ですか~…すごいですね…。当時から今に連綿と続く部活動の様子が見えるようで感動しました。
     又この写真を見た方の中に祖父や父が写っているなどと、思いを馳せる方もおいでになるかも知れません。アップされた写真が素晴らしいものだけに、波及とその効果や展開に興味が尽きません。

     ところで弥山を含めて天狗への稜線がナイフリッジだったとのことですが、私は知りませんでした。その当時のことを知っている人にとっては、今の弥山付近は痛々しく見えるのではと思います。石鎚山系を見る度にいつまでもこの自然が残っていてほしいと願っている、私もその内の一人です。
    空蝉さんの写真がないのは残念ですが、又の機会に関連写真等見せていただければ幸いです。

  • #2

    え?姫 (金曜日, 12 3月 2021 09:39)

    空蝉さん、こんにちは。
    そして、このページに集う同窓のみなさん、お変わりなくお過ごしのことと思います。
    空蝉さんの父上が35期というので、気になって名簿を見ると、私の父は34期(昭和9年3月卒業)。
    そして、私が石鎚山に初めて登ったのは、昭和43年10月、西条高校を卒業した年です。
    ま、ま、ほぼ同世代。
    両親のお墓参りに帰る私を石鎚山、そして四国の山並みはいつも変わらず優しく迎えてくれます。
    自宅では、このページのそれぞれの写真をパソコン画面いっぱいにして眺めます。
    本当に『故郷の山はありがたきかな』です。

  • #1

    ひねもす・のたり (月曜日, 08 3月 2021 23:28)

    空蝉さんこんばんは。
    87年前の貴重な写真、よくぞ保存されていましたね。
    ここ最近何かと忙しくて、気持ちが落ち着かないままブログの更新をサボってしまいました。
    空蝉さんの投稿で目が覚めました。(笑)
    これは、すずめさん、ひうちさんのみならず、見た方は驚くでしょう。戦前の一枚ですよ!
    空蝉さんが石鎚のみならず前山界隈にも詳しい理由がこの一枚でよく分かりました。
    父上は登山部だったのですね。父上から石鎚の話を幾度も聞かされている空蝉さんの幼い頃の
    真剣な眼差しが浮かんできます。そして中・高辺りでだいぶ歩いたのでしょうね。
    7月20日。何か覚えがある日だなと…娘の誕生日だった。確かに孫世代です。
    ありがとうございました。