蒼天に山笑う・・

お矢来すずめ

 

今年は例年になく早めに梅雨入り、コロナ禍も自粛から自衛へと移り行く段階にて私達の日常もまたいろいろとそれなりに対応しながらも倦む事なく過ごして行きたいものです。

そこで・・

 

目に青葉、五月晴れが続いた今年のゴールデンウィーク・・世はまさに自粛自粛の真っ最中でした。三密を避けての不要不急の外出や遠距離の移動などもっての外との御沙汰に至っては以前から計画していた残雪の鳥取大山登山は敢え無く断念・・逆に山への想いは募るばかり。

そこで一計を案じ自宅から車ですぐの赤石山系に狙いを付け3回ほど山歩きを楽しんできました。
写真は自宅近くの国領川に架かる新田東橋を手前にして望む赤石山系・・中央やや右の奥に西赤石山がちょこんと写っています。

 

(4月29日)大永山トンネル~土山越え~ちち山・笹ヶ峰(?)
自宅から別子ラインにのって車で30分余り、大永山トンネルを抜け出たところ、左が登山口です。

 

1時間程で尾根道の分岐点・・右へ行くと綱繰山、銅山嶺方面に繋がっています。

 

分岐点を左に取ってさらに1時間30分で四等三角点のある小さなピーク、獅子舞の鼻で遅めの昼弁当を遣いました。

 

その後すぐ、残雪が所どころに残っている笹ヶ峰と右に沓掛山がやっと望める所までは行けたのですが、そこから先は藪が濃くてやむなく引き返すことになりました。

実はこのルートに取り付く前に、大永山トンネルから車で少し下った中七番からナスビ平に登り

この時期そこに群生するカタクリの花の状態を調べに登っていたのですが、途中で出会った人から

ここ数年は鹿に食い荒らされて酷いことになっていると聞かされ、

やむなく引き返し前述の別ルートに変更した次第です。


(5月1日)日浦登山口~銅山嶺~日浦登山口

この日も五月晴れに晴れ渡った空の下、久しぶりに山仲間のうちAKTが歩を合わせての山行で気持ちのよい汗を搔いて来ました。
前述の大永山トンネルから車で下る事10分程で日浦登山口に到着です。
この登山道は、そのまま別子銅山史のルーツとなっているんです。

江戸時代(元禄期)に銅鉱脈が発見され住友家によって本格的に採掘事業が行われ、大正の時代に銅山嶺北面(東平方面)に採掘拠点が移行するまでは一大拠点となって数千人の従事者が住み暮らしていたメインストリートでもあったのです。
写真のように日浦登山口からの小一時間は往時を偲ばせる石垣積みに導かれ進みます。

大劇場や小学校、長屋住宅に銭湯、役場に郵便局・・と衣食住働の全てが賄えるインフラ環境がこの別子の山奥にあったという・・残念ながら建物や住居は一切残っていませんがそれでも夢のような歴史遺産の跡を体感出来るのです。

 

そして往時の街並みを過ぎたあたりの中腹以降、今度は廃坑となっている採掘抗があちらこちらに点在していて正に世界屈指の銅採掘が行われていたことを物語っています。

 

樹林帯を抜け銅山嶺まで登山もあと少しのところ、登山道から少し外れた見晴らしの良い小さな尾根の先、精巧な石垣で囲まれた蘭塔場と呼ばれる場所があります。
銅鉱採掘の事故や災害で亡くなった人を弔うため江戸期に開設され、今に静粛の雰囲気を遺す慰霊場となっています。

 

この日の目的地、銅山嶺に到着です。そしてここにも慰霊場があります。一般的にはこの峠は銅山越えと言われていて、大正期になって採掘拠点が左側の新居浜市内寄りに下がった東平地区に移るまで二百年余りの期間、最大時は三千人に及ぶ従事者と新居郡(現新居浜市)とを結ぶ往還道でそれらの人々の生活を支える食糧物資の輸送路でもあり、厳冬期や嵐に見舞われ命を落されることも度々であったとのこと・・。

 

見晴らしの良い嶺まで登って久々のAKTです。他に人が居なかったのでカメラを小石にもたせてローアングルでの自動シャッターで撮ったのですが・・せっかく素晴らしい青空に屹立する西赤石山が三匹の山男が邪魔をしてしまい皆さんにお見せ出来ませんでした。


 

(5月14日)東平~銅山超え~西赤石山~兜岩~東平
この日の朝もまた、青空に晴れ渡り自宅から望む西赤石山頂付近にピンク色がちらほらと点ていして見通されるのを目の当たりにしては、もうじっとしてはいられないのがすずめ・・。
というのもアケボノツツジの開花時期が以前はゴールデンウィークが満開だったのがここ数年に至ってはどんどんずれて遅くなってきているのです・・地球温暖化に逆行するかのように・・。

自宅から30分足らずで東洋のマチュピチュ東平の駐車場・・そこからの西赤石へはいくつものルートがあるのですが今回は先ず銅山峰ヒュッテルート(写真左方向)を採ります。この辺りにも古い坑道跡があちこちに残っています。

 

しばらくは良く整備された道をゆるゆると進むこと15分程で分岐に出ます。これまでいつもは左へ道を採って銅山峰ヒュッテ経由で登っていたんですが、単独行のムラッ気が起きて初めて馬の背経由を歩いてみることに・・。

 

樹林帯の急登を登ること2時間近くで前回も来た銅山嶺慰霊場に到着です。西赤石へはここの右側から後ろに巻いて行きます。ここからは見晴らしの良い尾根道をひたすら登ることになるのですが日当たりが良い分、汗の出方も並みじゃないルートです。

 

15分程で小高い天満山頂上に・・すぐ向こうに西山や綱繰山が連なり奥には笹ヶ峰とその右に黒森山が望めます。

 

さらに15分で東山

 

西赤石山頂を目の前にして登ってきた方向を振り返ると、遠くに連なる稜線が望め、左から笹原の平家平とそのすぐ横の冠山、そしてちち山、笹ヶ峰、いちばん右にゆるい鞍部の先に沓掛山へと伸びやかにたおやかな峰々が鎮座しています。その鞍部越しに遥かに霞んでいるのは瓶ヶ森と石鎚山です。手前眼下の登山道中では満開のアケボノツツジが癒し励まし続けてくれました。

 

下山は来た道とは違う急坂ルート、写真の兜岩を経て東平駐車場へ下る事にしました。

 

わたしの日常はシルバー人材センターを通して依頼された仕事を中心に置きながら、その合間にはソフトボールでも汗を流し、そしてまた朝の目覚めにくっきりと晴れたスカイラインが目に飛び込んでくるとそそくさと山仕度く・・と云う風に老いの身に残された日々の充実に心をくだいているのが現状なのです。

 

 

日 残りて 昏るるに未だ 遠し  『三屋清左衛門残日録』山本周五郎著           チュンチュン ヾ(((o^Θ^o)))ノ"彡

 

 

コメント: 2
  • #2

    ひねもす・のたり (月曜日, 29 6月 2020 17:49)

    すずめさんこんにちは。益々盛んな活動に驚いてます。
    私らが経験出来ない「古希を超えての登山」のはしご報告。感謝と益々の応援を申しあげます。
    大型連休を利用しての残雪の鳥取大山行き断念はコロナでやむ無しでしたが、銅山界隈を三度も堪能したのは、良い意味で充実感が伝わります。
    三蜜に代わる三登ですね。それにしても、タフガイだなあ!!
    AKTとの同行は何故か嬉しさが募ります。

    ひうちさんのコメントにある通り「AKはお断りの登りルート」まで後日単独行動したとか。
    AKがお断りとは相当ハードなのだろうね。
    東平の遺構跡(東洋のマチュピチュ)ですが、7~8年以上前に母親と叔父(母の弟)を連れて車で行ったけど、途中の道路が狭くぬかるんで路肩で滑ると転落するので、遺構跡到着まで、母・叔父共に座席で固まってました。懐かしい記憶です。

    日 残りて 昏るるに未だ 遠し 『三屋清左衛門残日録』 
    古希を過ぎて尚更に感じるこの頃です。私も頑張ろ。登山以外で。

    さて前回、姫さんからコメント来てましたが、遅まきながらこの場を借りて返信。
    すずめさんがコメントしてましたが、道前会報の通り、母校生徒の制服が男女共に変わる(変わった?)との事。
    50有余年前に姫さんらが中心となって、「女子の夏制服を変えたいと、今とおなじようにファッションショーを開催したことがあります。でも、結局現状維持となった経緯があります。」
    との話を思い出しました。
    ついに男女共に制服一新ですね。西条に帰った折り機会が有れば学生たちの新制服姿を見てみたいと思います。

  • #1

    ひうち灘 (日曜日, 28 6月 2020 09:06)

    今年のゴールデンウィーク中はいい天気だったですね。
    中日の銅山越登山の際はお世話になりました。
    下山途中に上弦の月を見て吉田拓郎「旅の宿」の一節を2人で歌ったですね~。
    上弦の月だったっけ妙に色っぽいねと、、本当は久しぶりだね月見るなんて・・
    なんですが、間違った私に合わせて歌ってくれたのを思い出しました(笑)。

    そして
    ナナ何と3日目馬の背経由で銅山越へ登ってしまったと言うではありませんか。
    ここはKTFが以前銅山越から下山途中試しに歩いて「登りは絶対いやだぜ」と言ってたところですよ~。
    F君が転げ落ちたところでもあります。
    そんな御免被りたい登りの馬の背から西赤石山急坂な兜岩を経て東平までのルートを頭に描いてみました。
    (少し沈黙後)私だったら無理ですね・・。
    私たちと登る時は中日の銅山越程度で、またよろしくお願いします。